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安曇族の歴史探索ツアー!(志賀海神社篇①)

僕たち「カフェ・スプリングバンク」のある乗鞍高原は、元々は「安曇村」
という地域でした。この安曇地域のいろんな史跡や歴史を探索すると、
必ず「安曇族」と言う日本という国を最初に創ったとされる海人族へと
繋がっていくのでした!・・・。そして、その海人族である「安曇」の人々
は、その後拠点であった福岡市から日本中へと広がっていき、最後に
辿り着いたのが「安曇野」や、この乗鞍高原のある旧安曇村地域だった
のでした!!・・・。
(今までの経緯はコチラから見て下さい。→「安曇族の歴史探索」)

そんなワケで始まったカフェ・スプリングバンクの「歴史探索ツアー」・・・。
今回はいよいよ、その最終地点であり、「安曇」始まりの本拠地である、
九州・福岡市の沖合いに浮かぶ島、「志賀島」へと向かったのでした~~。

九州ツアー第4弾は、「歴史探索ツアー」、「志賀海神社」ですっ!!
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乗鞍高原周辺の歴史や伝説を調べていくと、全ての事柄は「安曇」と
言う一つの言葉に行き着くのです!! そして「安曇」の謎を辿って
行くと、全ての謎の答えが九州・福岡市の沖合いに浮かぶ島内にある
「志賀海神社」へと繋がっていくのでした!!・・・。

去年僕達は「安曇族」の謎を追って、初めて九州何部に上陸しました・・・。
そして今回は、満を持して、絶対的安曇の本拠地である「志賀海神社」
へと向かっていったのでした~!! なので、

今回も飛んだのでした!!
日本創生の地、九州へ!!
・・・・・・・。

というワケで、今回の「歴史探索ツアー」は、最終地点かも知れない
安曇族の本拠地でありルーツであり、いろんな核心が集まっている
「志賀海神社」ですっ!!・・・。

今回は、人生初の国内線飛行機に乗って、しかも初の松本空港から、
これまた初のFDAの飛行機で、福岡まで文字通り飛んで行ったので
した~・・・。松本空港から→福岡まで、約1時間!・・・。飛び立ったら
スグに着陸したぐらいに、メッチャ早かったですぅ~・・・。


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「志賀海神社」は、福岡市の沖合いに浮かぶ楕円形の志賀島にあります。
志賀島は細い1本のスジのような砂州で陸地と繋がっている不思議な
島です・・・。その細い細い砂の筋の上に、現在は道路が造られていて、
車やバス、歩いて渡れるようになっています。

ここを僕たちはバスに乗って揺られながら、そしていよいよ安曇の
謎の核心であり、本拠地へと上陸していくのかっ?!と言う期待と
不安の渦巻く気持ちで渡っていったのでした~・・・。


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志賀島へ辿り着いたらスグに志賀海神社の大きな鳥居があります。
昔はそこから参道になっていたようです・・・。その最初の鳥居から
約400mほど先に、この画像の「志賀海神社」の入口がありました!
これは最初の「三の鳥居」らしいです・・・。

僕達の住んでいる長野県・安曇地域の元々は、日本の歴史が始まる
ずっと以前に九州北部で繁栄していて、船を操って海を支配して
いた「安曇族」にルーツがあるのです。日本の歴史で弥生時代になる
ずっと前に安曇族は居て、中国の国々と船を使って行き来して交流
をして繁栄していたらしいのです。その「安曇族」は現在の福岡市の
辺りで栄えていたようですが、中心はこの「志賀海神社」だったよう
です。なのでこの「志賀海神社」には「安曇族」の話がたくさん残って
いるのです!!・・・。
(志賀海神社の公式ホームページはコチラから。→「志賀海神社」)


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最初の鳥居をくぐって石段を登って行くと、最初に末社「印鑰社」が
左側に鎮座しています。これは入口の末社らしく、「印鑰」とは、
朝廷から渡された鍵の事らしいですね・・・。


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次にあるのは、「宝篋印塔」という石の塔です・・・。これは元々仏教の
過去・現在・未来を願った仏典を表した塔らしいです。真ん中の四角
の中心には「不空成就」という意味の4つの梵字が書かれています・・・。
完全な姿で現存する福岡県内最古の印塔らしいです!


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そして、いよいよ楼門をくぐって「志賀海神社」へと入ります!!
この楼門の前には石の橋があります。この橋があの世=(神域)と
この世=(俗世)を隔てる橋らしいです・・・。


「志賀海神社」は、日本全国の「綿津見神」や「海神社」の総本山です。
日本最古の書物である「古事記」や「日本書紀」の神話の時代に出て
来る最初の神様「伊邪那岐(イザナギ)」が、海に入り禊をした時に
海の神「綿津見三神」が生まれたとされ、その海の神「綿津見神」は
ここが総本山になっているのです!!3つの神は、「表津綿津見神」
「底津綿津見神」、「仲津綿津見神」と言われています。海の神様を
「ワタツミ」と読むのですが、このワタツミが訛って→海人族で
ある人々が「アヅミ(安曇)」になったとも言われているのです・・・。

「志賀海神社」の創建は不明らしいですが、安曇族が居て海を支配
していた頃に、志賀島の北の端に表津宮、仲津宮、沖津宮の3社が
あったらしいです。その後、安曇磯良という人が表津宮を現在の
ところへ移して、現在のこの「志賀海神社」となったようですね・・・。
この「志賀海神社」の伝説などからすると、神話の時代からあった
とされるようです。(仲津宮、沖津宮は、その②で紹介します・・・。)
そして、この「3つの神様が一つ」だという考え方は、安曇野にある
「穂高神社」でも同じで、豊科にある「穂高神社」、上高地の奥にある
「明神社」、そして奥穂高岳山頂にある「嶺社」という事です・・・。

記録上では「志賀海神社」は、天平3年(731年)の「住吉大社司解」と
いう本に、「屋郡阿曇社三前」や「志賀社」として記載されていたり、
大同元年(806年)の「新抄格勅符抄」にも「阿曇神」として8戸あった
と書かれているらしいです。また、「延喜式」の神名帳にも大きく
「志加海神社三座、並名神大」と記載があるのです!! 「安曇族」
の名前は、古事記や日本書紀の中に「綿津見神の子、阿曇の連」と
書かれているのです~~。


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楼門から右奥へ向かうと、この豪華な拝殿と本殿があります・・・。
今回の僕の核心は、この拝殿で行われる、あるお祭りにあるの
です~!!

「志賀海神社」のお祭りの1つに「山誉漁猟祭」というのがあります。
このお祭りでは神楽がこの拝殿で演じられるのですが、その神楽
の時に歌われる歌が、現在の日本の国歌である「君が代」の原文に
なっているのではないか?!、という謎があるのですっ!! 
その詩とは、、、

「 君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて
  こけのむすまで

  あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命
  千歳という

  花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ
  鯛は沖のむれんだいほや

  君が代志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたる
  あの吹上の浜 千代に八千代まで

  今宵夜半につき給う 御船ありけるよ あれはや あれこそは
  阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
 
  いかるよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな 」

という神楽歌なのですっ!! 
現在の「君が代」そっくりじゃないですか?! そしてこの詩の中には
「阿曇」という名前も出てきますっ!! この詩は現在「君が代」の元に
なったと言われている平安時代末の「古今和歌集」よりも、もっと古い
神功皇后の三韓出兵の時のモノらしく、コチラの方が元祖らしいです!
そして「古今和歌集」では、「君が代」ではなく「我が君」と書かれていて
内容が違うのです。だから今では、コチラの方が信憑性があると言わ
れているのです! そして、その神功皇后の三韓出兵の際には、その
食前において山誉の神事を奉仕をした事によって、神功皇后が「志賀海
に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ!」と庇護をされたので、上記の
歌は現在にまで伝承されているらしいのです!!・・・。

そして!!、この福岡市沖には、千代の松原の「千代」、細石神社にある
「さざれ石」、井原鑓溝遺跡辺にある「いわお」、などなど「君が代」の中に
ある地名が全て残っているのです!! そして、福岡の「若宮神社」には
「苔牟須売神(コケムスメ)」の神様が祀られていたりと、この極めて狭い
範囲の地域に全ての名前が全部あるらしいです!!

なので、これらの事から、「君が代」の「君」というのは天皇の事を指すの
ではなく、この「志賀海神社」の山誉祭神楽歌にある「阿曇の君」の事!=
日本の国歌「君が代」の
君とは、安曇族の事だ!!
という話なのです~!!! 

どうですか?! 安曇地域の歴史や伝説を辿っていったら、日本の国
を最初に造った安曇族に繋がり、そして最後には日本の国歌「君が代」
も、安曇族の事を歌った歌だった!という事に行き着いたのです!・・・。
(※詳細はウィキペディアにも書いてあるのです!!→「君が代」)
(※この「山誉祭」は福岡県指定無形民族文化財に指定されています。)


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拝殿の前には「鹿角堂(ろっかくどう)」という、鹿の角をビッシリと
詰め込んだ、珍しいお堂があります。これは、上記の「山誉漁猟祭」
で鹿狩りをするようすを再現した踊りがあるらしく、元は神功皇后
が対馬で鹿狩りをされたときに奉納したのが起源らしいです。以降
志賀海神社では、鹿の角の信仰があったようです。歴史家の人達に
よっては、この鹿の角を使って道具を作っていた名残りだという説
を唱えている方もいらっしゃるようですね・・・。


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拝殿の右奥には、「亀石」がありました。
これは、神功皇后が三韓出兵の時に、勝利して無事凱旋できるよう
にと安曇磯良に7日7晩神楽を歌い踊って祈願したところ、海から
黄金の亀に乗って志賀明神が現れて導いたという逸話から、ここに
亀の形をした石が雄雌2つ分あるのです~。 亀によって導かれる
という話は「古事記」にも浦島太郎伝説に似た話で出てきますね・・・。
もしかしたらコレが元々だったかも?!・・・です・・・。


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拝殿の左側には「今宮神社」があります・・・。
この「今宮神社」は、「宇都志日金折命(ウツクシカナサク)」という神様
が祀られています。これは「古事記」に書かれている「阿曇連」の元々の
子孫らしく、安曇族はこの神様から生まれてきているらしいです!・・・。
そしてこの「今宮神社」には「阿曇」代々の人が奉祀されているのです!
そして!、現在もこの神社の宮司さんは代々「阿曇」という名前らしい
です!!・・・。今でも子孫なんだと思います・・・。

長野県の安曇地域には、現在は「安曇」の姓の名前は、ありません・・・。
残念ながら他の豪族との戦いで敗れたりして、名前を変えて生き残る
ようにしていったようです・・・。でも、もしかしたら名前を辿る事で
「安曇」の末裔という事にどこかで繋がるかも知れません・・・。


そして!、志賀海神社の歴史探索ツアーは、神社の外へと向かいます!!
続くぅ~~。




by springbk2 | 2018-12-17 07:50 | 歴史探索 | Comments(0)